私の信念について
私の信念について 昭和40年4月10日 朝
一、人生生甲斐を見出せば何事も遂行出来る。
人各々此の世に生を享ければ己が人格を有している。
「一寸の虫にも五分の魂がある」と言われる如く
人生意気に感じ己の生甲斐を見出せば
如何なる境遇にあろうとも己を信じ
それ以上に人を信ずれば
自分の能力のある限りやってやれない事はないと思っている。
二、人を信ずる事について - 善意について –
「私は何時も相手の立場に立ってものを考へよう」と申している。
その事は時として – 特に所謂商売の道に於ては –
ともすれば他人を信じ過ぎて結果としては貸倒れ、不良売掛の発生となって現れる事があり得る。
而し之も止むを得ない。
己が是と信じて行った事であれば総て自分の責任である。
何も他人を憾むには当たらない。- 假に之が為、店が潰れても –
斯様な事のない様に注意し、不断の研究をし、検討をし、情報を収集し、データを集め又作り、
上司の指導を受け、又同僚の意見も尋ね、其他己の全力を盡して努力するのが
平素の吾々の務めであると信ずる。
人の性は「善」なりと信ずるものである。
働くとはー ハタラク ー周囲の人を楽にさせる、己の全力を盡して
假に裏切られたとしても、之は自分の努力が足りなかったと反省したい。
三、敬愛 – 敬虔 – なる心構について
私は、平生、人あっての自分であると信ずる。
大きく広へば、社会あっての個人である。
会社あっての社長であり、社長あっての会社ではない。
その事は「人」という字の如く、お互いに持ちつ持たれて初めて自分が存在するという事である。
自分中心の物事の考へ方は止めたい。
その気持を押し進めればお互いの人格を有する限り
その人の立場を尊重し、譲るべきは譲り、お互が相互に成立って初めて商売 – 取引 –
売も買も存在する。
だから他人様、特に仕入先、得意先は勿論、假に商売の相手でなくとも、他人に対しては
敬虔なる気持ち – 人をうやまっている気持ち – 己をへり下って接してゆきたい。
此の事は卑屈になると云う事では決してない。
「実るほど、頭の低き稲穂かな」であって、假に年齢的、社会的に自分の地位が上がっても、
此の句の如き心構へでありたい。
小さいお得意先に対しても、決して高慢なる態度で臨む事は絶対に避けて貰いたい。
原 登